強いの日差しのもとで百日紅の木に沢山の紅の花が咲き、蝉の声がミーンミーンと聞こえる日中は暑さが厳しく、夏らしい日が続いていますが、急に雨が降ったりと不安定な天候の今日この頃でもあります。暦の上では既に立秋が過ぎ、夜になると庭から虫の音が聞こえてきます。「お盆が過ぎれば涼風」と昔からいわれてきた信州の夏も、ここ数年来地球の温暖化のせいか気候がずれているような感じで、9月に入ってもいつまでも暑いのが実状です。
今日は終戦60年回目の終戦記念日。あの悲惨な第二次世界大戦の集結から60年の歳月が流れました。戦後大きな復興をとげた日本。戦争直後の焼け跡が想像できない程高層ビルが立ち並び発展を続けている東京の日本武道館では、「全国戦没者追悼式」が行われ、犠牲者の方々のご冥福を祈り、平和への誓いを新たにしている様子がテレビで報じられていました。
天皇陛下からは、「戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から哀悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」とお言葉が述べられました。
戦争を体験された方と、していない人とでは、『戦争』に対する思いはまるで違うと思いますが、人間には誰にも平和に生きていく権利があるという『平和』への願いは同じだと思います。
先日、県民文化会館で行われた『被爆後60年縲恊M州の医療支援縲怐xのシンポジウムに、下伊那農業高校の生徒が、バス2台できて参加しました。
広島の原爆資料館の東側に3本の被爆したアオギリの木があります。その木の説明板には、『市内東白島町の中国郵政局の中庭(爆心地から約1500メートル)で被爆し、爆心地側の幹半分が熱線と爆風により焼けえぐられたが、その傷跡を包むようにして成長を続けている。昭和48年6月現在地へ移植された』と記されています。この被爆アオギリの木は、凄惨な広島の原爆被爆の数少ない生き証人と言われており、このアオギリの木の種子を、修学旅行等でくる小・中・高校へ配り戦争の悲惨さを忘れないよう伝えていこうとする運動が行われているとの事。下伊那農業高校の生徒達も育った苗木を修学旅行のときに持って行き広島へ植えてくるそうです。今井議員は、引率してきた先生が偶然知り合いだったこともあり、会場で下伊那農業高校の生徒さん達にエールをおくり、最後までバスを見送ったそうです。
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百条委員会の集中審議は本日3日目となり、3人の証人の方々の尋問が今現在(午後七時過ぎ)も行われています。教育委員会を傍聴してきた今井議員と事務局は先程一部を傍聴しました。
その証言の中で『仕事をしていく上で、検討の段階では、個々に考えはいろいろあり、意見の食い違う場合もあるが、しかし、一度決まった事に対しては従うべきだと考えている。知事の意見が絶対ということはなく、言いたいことはきちんと言ってた。』という答弁があり、仕事をする上で印象的な言葉でした。
又、今井議員は、長野県の衛生部保健予防課が県民文化会館で行った『被爆後60年縲恊M州の医療支援縲怐xにも参加し、大変深い感銘を受けてきました。
長野県にも194名の被爆者がおり、いまだ苦悩を抱え、医療を必要としている方々もおります。そのような状況の中で、平成17年時点で原爆症の専門医を招いて健康診断を実施しているのは被爆地の広島・長崎県と、長野県のみとの事。被爆者に配慮した医療体制を構築している長野県を誇りに思います。
<シンポジウムプログラム>
★原爆映画上映 <アトミックカフェ>
★講演会
・被爆医療講演
元広島大学原爆放射能医学研究所 深沢嘉一先生
・被爆体験談 県内在住の被爆者の方の実際の体験
・ディスカッション
深沢嘉一先生・田中康夫 信州・長野県知事
澤田祐介長野県衛生部長 ほか
講師の深沢嘉一先生は、長野県においては、昭和41年から原爆専門医として被爆者検診に携わり昭和54年からは、当検診のキャップとしてご尽力頂いている方です。
以下は、本日のシンポジウムに参加した今井議員の感想文です。
『私には、広島の爆心地近くの「観音」生まれの伯父と結婚した伯母(母の姉)がおり、原爆の投下時には東京に住んでおりましたが、家族の安否を気遣い広島へ行き被爆してしまいました。
子どもの頃、伯母を訪ねてよく広島を訪れましたが、夏休みに行った時は、平和への祈りを込めて8月6日に元安川で行われる「とうろう流し」を見に行きました。「とうろう」の灯が川を流れていく様子は、美しくも悲しく心に残る情景でした。
初めて広島へ行った時の事です。夕方乗った電車の中で、デッキの側に綺麗なお姉さんが立っていました。美しい人だなぁと見とれていた次の瞬間、私の目に飛び込んだのは、横を向いた途端に見えた顔から首にかけての痛々しいケロイドでした。子供心に大きな衝撃を受け、涙が出そうになった事を今でもはっきりと憶えています。
平和公園以外の、開発され発展した広島市の表面だけを見ていると「原爆」「戦争」は消えてしまったかのような錯覚を覚えるほど再建されていますが、まだまだ、町のいたる所に、生活の中に、後遺症は深く残っていて根強く息づいていました。
伯父も40代から被爆症状が出、交付された被爆手帳と共に仕事を辞めました。その後毎日病院通いをし、薬浸けになり、苦しんだ末、50代になって運命の日終戦記念日の「8月15日」にこの世を去りました。
シンポジウムに参加し、広島の人たちが背負わなくてはならなかった戦争の悲惨さを改めて思いました。』
又、今井議員は8月6日の原爆記念日の早朝五時から佐久市の公民館で行なわれた、平和についての早朝学習会に参加し、佐久地域の皆さんの平和への誓いを聞きお話をさせていただいたそうです。
県下水道公社や県に知事後援会幹部が入札制度変更を働きかけたとの問題等を調べるため、県議会が調査特別委員会を設置し、昨日より明日(12日)まで3日間の証人尋問が始まりました。
昨日は、当時の県下水道課長を含む3名の方々が証言されました。
委員が出られない『トライアルしなの』で、昨日は両議員とも予定が入っており傍聴出来ないとの事なので、仕事を調整して一部傍聴してきました。
傍聴していて自分の不勉強さを感じたのは、「そもそも働き掛けとは、どの様な事までをさすのか」という原点の範囲が、自分の中で把握されていないという事。
県議会でも、2003年9月定例会で『県内業者優先の発注』に対する陳情を採択した経緯がある中で、下水道事業に対する発注先を大手ゼネコンだけに委ねるだけではなく<県内企業優先>にする為の方向で改革へ向かい話し合ってきたことが、あたかも全て悪い事をしていたような錯覚に陥り、聴いているうちに複雑な思いに駆られました。
今朝の新聞報道を見ると、あの場の状況が活字になるとこう表現されるのだと・・・・いろいろ考えてしまいました。
衆議院解散総選挙へ向けて日本国中が揺れている時、長野県議会では、明日から3日間行われる「百条委員会」の集中証人尋問に備え、協議会・委員会が開かれ、4人の証人に対し、出頭要請することになりました。
いよいよ明日から始まりますが、どのような展開になるのでしょうか?
午後1時半から、県教育委員会の県立高校再編案で統廃合の対象校となった望月高校の同窓会やPTAの皆様が来庁され、教育委員会と県議会議長に再編案の白紙撤回を求める要望書と、1万5713名の署名簿を提出し、陳情しました。
今井議員は地元議員(現在望月町は佐久市に合併)であり、望月高校の存続を願って今まで様々な活動をしてきていますので、同じ立科町の寺島議員と共に、皆様と同行し現状を訴え要望しました。
又、本日は島田議員も政務調査のため登庁され、両議員が揃ったところでしばし団会議を行いました。
小泉首相が最重要課題と位置づけた『郵政民営化関連法案』は、本日の参議院本会議で採決され、自民党から22人の反対、8人の欠席・棄権が出て、賛成108票・反対125票の17票差で否決されました。
その後行われた臨時閣議後「民営化に賛成するのか、反対するのか、国民に問いたい」との意向で、衆議院が解散になりました。今回の解散は、された法案が、され、という不思議な状況ですが、総選挙は、8月30日公示、9月11日投票日と決定しました。暑い熱い夏が始まります。
これからの選挙戦は、「郵政民営化」を争点に、政権をかけた激しい闘いが予想されますが、自民党の中でも意見が分かれ複雑な争いになりそうです。
被爆から60年、広島は今日『原爆の日』を迎えました。
爆心地に近い平和公園では『原爆死没者慰霊式・平和記念式』が営まれ、犠牲者に対し鎮魂の祈りが捧げられました。
毎年8月6日の広島、8月9日の長崎の原爆記念日・15日の終戦記念日を迎えるたびに戦争の恐ろしさ、戦争の悲惨さを思い『世界の恒久平和』『世界中の核廃絶』への思いを新たにします。
戦後60年、戦争を知らない人たちが増えている現在(私自身も戦後生まれ)、自らの体験を通じて本当の戦争(日本の歴史)を語れる人たちが段々少なくなってきています。私は幼い頃から、戦争の様子や戦時中の生活・遺族としての悲しみ等を何気ない家族の会話の中で、祖父母や両親等から聞いていました。しかし、そんな我が家にも、現在は80歳を過ぎた母1人しか残っていません。
私の祖母は、当時としては割合に裕福な商家に育ちました。使用人を何人か使い、明治の時代でも教育を受け、習い事にも励んで、幸せな子ども時代を過ごしました。しかし、3年の間に立て続けに、両親・祖父母と次々に肉親が亡くなり、16歳で我が家の祖父と結婚した時には、弟が2人しか残っていませんでした。家族運に恵まれない上に、未成年だからという理由で財産を後見人(親戚の人)に預けさせられ、その財産までも後見人にとられてしまうという悲しい運命にさらされました。祖母にとっては唯一の肉親であった残された弟達2人は、かけがえのない『宝物』だったと思います。その弟達にもついに召集令状が届きました。
祖母は、いつもどんな時でも優しく穏やかな人柄でした。温かな心遣いが出来、周りの皆から「本当に観音菩薩のような人だね。」といわれ続けた心の美しい人でした。弟達が戦争に行ってからは、そんな祖母の柔和な顔の眉間に皺ができる位、毎日安否を気遣っていました。そして、ある日ついに悲報が祖母のもとへ届きました。戦争に赴いた弟達は、2人ともビルマ・北支で「戦死」してしまったのです。
お国のために命を捧げるのが当然と思われていた時代です。気丈で凛とした明治生まれの祖母でしたので、どんなに辛く悲しい事があっても、決して人前で涙を見せる事はありませんでした。が、その時、庭の片隅で銘仙の着物姿の祖母が一人泣いていた姿がとても印象的で、いまだに忘れられないと、戦争の話が出る度に、母がその時の様子を話してくれます。
そして、「おばあちゃんの涙を見たのはその時だけだった・・・」と。
又、母は、「普段、祖母の口から愚痴など一言も聞いたことがなかったのに、弟達を思い『人と争うことなど嫌いな性格だったのに、戦場に行かされ死んでしまった。戦争のために生まれてきたようなものだ・・可哀想に』と、ポツリと言った。その一言に祖母の悲しさの深さを思い、その時の淋しそうな顔が目に焼きついていて忘れられない。この8月になると特に思い出す。」と言っています。
『戦争』は、多くの人に悲しみと苦しみを残しました。日本が戦争への道を歩んだ過去の『過ち』を、決して繰り返してはなりません。今、世界各地で起きている『テロ』も繰り返してはならないと思います。心から平和を願います。